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『円紫師匠と私』シリーズの落語はなし

北村薫 作の『円紫師匠と私』 シリーズは古典文学・文学・歌舞伎・落語の薀蓄満載の作品です。(ご存知のかたは多いとおもいますが) 古今亭志ん朝師匠の愛宕山を聴いている最中に、たちきれ線香の最後の部分を語っていたのはどの作品だったか、読みたくなりました。きちんと読み返さずに探すとなると、読書日記を公開しているかたのブログを参考にしたほうが確実 と検索をかけました。該当箇所を探すさい ブログ ‘混沌の部屋’の 《資料室》  「円紫師匠の演目」を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

以下引用します。落語家春桜亭円紫師匠と主人公私との会話(文春文庫 朝霧 走り来るものより)

「『たちきれ線香』という噺がありますよね」

「はい」

関西を代表する大きな噺のひとつである。純情な芸者の小糸が若旦那を好きになる。ところが、若旦那は遊びが過ぎるというので、百日間、蔵に閉じ込められてしまう。外に出られない。小糸は、見捨てられたと思い、こがれ死してしまう。蔵住まいを終えて出て来た若旦那は、そのことを知り、一生、妻は娶らぬと誓う。その時、小糸の愛用の三味線が鳴り出し、地歌『雪』の哀切な調べを奏でる。

(略)

三味線の音が、途中で途切れる。おかしいと思ってみて見ると、線香が燃えつきていた。当時の芸者は線香を営業時間の単位にしていた。そこで、《線香がたちきれました》というさげになる。

(略)

「あなたは今、《線香がたち切れたから、小糸は、三味線をひかない》といいましたね」

「はい」

「僕も東京の落語家さんが、そう演っているのを聴いたことがあります。《ひかないわけだ。線香がたち切れています》という風にね。それはそれでいい。これも落語らしい終わり方です。ただ、関西の演り方は違うと思うんですよ」

「― といいますと?」

「気をつけて聴いてごらんなさい。米朝師匠も、文枝師匠も、《小糸は、ひかしまへん》とはいっていない筈です」

「― は?」

円紫さんは、真顔になり

「《ひけしまへん》と、いっている筈です」

私は、大きく目を見開いた。《たちきれ線香》は複数回聴いているというのに、何という粗忽さだろう。(中略)小糸の悲劇は芸者としてのものであり、様々なものに縛られているからこその悲劇だ。だから、線香がたち切れれば、思いを語る三味線すら《ひけない》のだ。(後略)

「恐れいりました。目から鱗です」

それは即ち、同じ本も読み手にとって、まったく別なものになるという実例であろう。

「いや。そんなに恐縮するほどのことでもありませんよ」

「いえいえ。本当に解釈って恐ろしいと思います。― 見方によって、お話の色合いも随分、変わって見えるものですね。」

ここで語られているのは、文字ではたった一字違い「ひかない」「ひけない」の例です。噺としての違いは しぐさ 表情  声 などが加わっていくわけですから、同じ噺でも幾通りものバリエーションになっている ということでしょう。

元は同じ噺が江戸と上方で、土地にあわせて変化している、一門によって工夫が加えられ伝わっている型が違う、話す噺家さんによって自分の演出をする方もいる。

薀蓄や経験(この人とかこの一門の噺を聞いたことがあるなど)があればあるほど面白さが増えていくわけでして。  (古典芸能系はそういうもの 多いですが) 薀蓄がない方の私などは ただ聴いていても十分楽しいです。がそういいながらも、好き嫌いがあるんだよねと再確認していました。 

春桜亭円紫師匠をどなたかが演じてくれて、作中の落語を聴けないかなーとも思いながらの再読でもありました。 追記 上記 会話のなかで 文枝師匠の落語を聞いて、終わり方に違和感がありまして、と円紫師匠に主人公が水を向ける会話を略してしまってました。蛇足ですが明記しておきます。

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